坂本麻美さん
新潟県生まれ。学習院大学文学部日本語日本文学科卒業。早稲田大学大学院日本語教育研究科修了。
大学在学中に、日本語教育能力検定試験に合格し資格を取得した。大学院修了後は、中国にわたり吉林大学外国語学院にてネイティブ日本語教師として指導。帰国後、非常勤講師、出版社などを経て、現在は、流通経済大学にて専任所員(講師)として勤務。
日本語教師になるまで
ドラマで見た日本語教師にあこがれて
日本語教師の存在を知ったのは、高校生の頃、ベトナム人と日本語教師の交流を描いたドラマを見たのがきっかけです。調べてみて面白そうな職業だなと思いました。
また、高校の修学旅行でオーストラリアに行ったとき、現地の日本人コーディネーターの方とお話ししてみて、「海外で働くのもいいな」と興味を持ちました。「日本語教師として海外で働くのも面白そう」と思い、目指すことに決めました。大学は文学部日本語日本文学科に進学し、日本語教育コースを選択しました。
日本語教師志望者があまりいない環境でも「やってみないとわからない!」
日本語教育コースではありましたが、実は周りに日本語教師になりたい人はあまりいなかったんです。「日本語教師は食うのが大変」と言われるので、みんな躊躇していたようですね。
私はというと、相変わらず日本語教師になりたい気持ちは強くて、「やってみないとわからない。面白くなかったらやめよう」と、比較的軽い気持ちでいました。大学の日本語教育の授業が面白くて、魅力を感じていたのも大きかったと思います。
ただ、大学は文学や言語学の授業が中心だったので、実践力を身に付けたいと、100時間で実習をメインに学べる日本語教師養成講座を受講しました。また大学3年生の時に、日本語教育能力検定試験を受験して合格したので、日本語教師の資格は学生時代に取得できました。
海外派遣中止……期せずして大学院へ
海外派遣を目指し、JICAに応募
大学の指導教官から「日本語教師を目指すのなら一度は海外に行った方がいい」と言われたこともあり、在学中に青年海外協力隊(現在はJICA海外協力隊)に応募しました。卒業後は、日本語教師として海外に行きたいと思っていました。
ただ、言ってしまえば「普通の道から外れる」形になるわけですから、その決断に至るまでは迷いもありました。決心できたのは、当時のバイト先で出会った人たちの影響があったかもしれません。
そのバイト先には大学生だけでなくフリーターの人もいて、自由に働いている人たちが多く、中には現職の日本語教師の方もいました。その方に「日本語教師をやってみたいんだけど、親は当然就職すると思ってるし、迷ってる」と打ち明けてみたところ、「やりたいんだったら、とりあえずやってみたら」と背中を押してもらえたんです。「やっぱり、どうせ働くなら好きなことをやりたい」という思いが強かったので、「突き進んでみよう!」と、決心できました。
でも、親はきっとびっくりするだろうと思い、卒業直前までは「大学院に行く」と言っていました。大学4年生の2月に、協力隊として中国への派遣が決まった時は驚かれましたが、最終的には、「JICAなら国の派遣ボランティアなので後ろ盾がしっかしている」ということをきちんと説明して、理解してもらえたのでよかったです。
ただ……その後体調不良になってしまい、結局、派遣中止となりました。
日本語教師としての「リアル」を知れた院生時代
やっと親を説得して海外に行けることになったのに、断念せざるを得なくなって、やることも決まっていなくて……当時はとても落ち込みました。
しばらくフリーターのような生活を送っていたのですが、大学の先輩に「ずっと日本語教育の世界にいるんだったら、先に大学院に行くのも選択肢としてありだよ」と言っていただいたことがきっかけで、その年の9月に早稲田大学大学院に入ることに。日本語教育研究科の教材教具研究室に入り、日本語教育の教材に関する研究を進めました。
研究室は、先生のお人柄がよくて、とてもいい雰囲気の中で学べました。現職の日本語教師の方がたくさんいらっしゃったことも、大きな学びになりました。「私のクラスではこうしてるよ」とか「今こういう問題が起きている」といったリアルなお話を聞くと、「日本語教師には、理論と実践の両方が必要なんだ」と実感できました。理論として机上で学ぶことももちろん重要だけれど、現場ではまたそれとは違う事態が起きていて、それに対応する力も必要なのだと。この段階で知ることができてよかったです。
それから、院生の頃、研究を進めながら非常勤講師として週2回ほど日本語学校で教えていました。お給料をもらって教壇に立ったのは、この時が初めてです。初めて教壇に立ったときの感想は、とにかく緊張しまくったことを覚えています(笑)。
その時の副校長だった先生がとても熱心な方で、模擬授業を見てアドバイスをしてくださったのがありがたかったです。学校全体も、先生同士の勉強会が頻繁に行われていて、とても活気のある学校でした。
中国、出版社、大学教員と、様々な職種にチャレンジ!
ネイティブ日本語教師として中国の大学へ
大学院修了後の進路について考えていたとき、中国の吉林大学で日本語を教えられている先輩から「後任を探している」というお話を聞く機会がありました。吉林大学は、奇しくもJICAで行く予定だった吉林省長春市にある大学。今回は何の後ろ盾もない状態ではありましたが、「これは運命だ」と思って、挑戦することに決めました。
中国では2年ほど、ネイティブ日本語教師として、会話、作文、古典文法を教えていました。中国は日本語能力試験(以下JLPT※)とは別に、大学日本語検定試験(四級試験、八級試験)という独自の日本語試験があり、その出題に古典文法があるんです。古典文法なんてもう何年も触れていなかったので、教えると決まったときは、慌てて大学入試の参考書を買って勉強し直しました。
この八級試験で問われる古典文法は、基本的に文法の知識のみです。でも「文法を覚えるだけではつまらないだろう」と思って、私の授業では百人一首を少しずつ教えていました。短い歌の中にも、文法があって、物語があって、読んだ人の気持ちがある。知識だけでなく、日本の古典文学の素晴らしさが伝わればいいなと思っていました。
※日本語能力試験(JLPT)…日本語を母語としない人たちの日本語能力を測定する試験
帰国後、非常勤講師の道から出版社へ
中国での2年の任期を終え、日本に帰国しました。他の国に行くことも考えたのですが、海外生活はあくまで経験の一つと考えていましたし、あまり長く日本を離れると帰りづらくなるという話を聞いたので。基本的には日本を拠点にして、海外に行きたくなったらまたその時考えよう、という気持ちでした。
帰国後は一人暮らしを始め、非常勤講師として大学に勤務していたのですが、他のアルバイトと掛け持ちしても、やはり食べていくのが大変で……日本語教育に関わりながら会社で働いてみようと、専門書や日本語教材を出版しているくろしお出版に入社しました。
ずっと教師をやっていたので、週5日デスクに向かって仕事をすること自体が初めてで、はじめは戸惑うことも多かったです。その反面、日本語教育を学んだり、日本語教師のときにお世話になった教材の制作にかかわることができて、とても新鮮に感じましたし、楽しかったですね。「自分が教師だったらこの教材をどう使うだろう」などと考えながら制作に携わっていました。
若い人と関わることに興味を感じ、大学の教員に
その後出版社を退職し、ご縁があって、現在の大学を紹介していただきました。今は、流通経済大学で専任所員(講師)として働いています。大学の応募条件は、「日本語教育が専門で、大学生の学習支援ができる人」ということでした。
教師の道へ戻ることには不安もあったのですが、「今の若い人達ってどんなことを考えているんだろう。どんなふうに学んでいるんだろう」と、若い人と関わることに興味が湧いたこともあって、またえいっと「飛び込む精神」でチャレンジしました。
今は、教育学習支援センターで学生の学習支援と、留学生の日本語授業、それから1年生の演習(ゼミ)などを担当しています。ゼミは、日本人のクラスと留学生のクラスの両方を担当していますが、それぞれ反応が異なっていて興味深く、どのようにゼミを進めていけばよいか、今後も模索していきたいと思います。
日本語学校と大学では、やはり学習者の目的が大きく違うように感じます。日本語学校は大学進学を見据えた学習者が多いため、JLPTのN1を取得するといった目標があります。目標が明確なので、全体的に学習意欲が高い学生が多い印象です。一方、大学の場合は、各々もっと自由に学んでいるイメージです。
大学の場合、日本語学校のように教師や職員が生活のことまで面倒を見ることが少ないので、学習意欲が薄れたり、登校しなくなってしまったりすることがあります。保証人に連絡したくても、家族は海外にいることがほとんどなので、まわりからのサポートが難しいという一面があります。そのため、大学ではその国の言語が分かる国際交流課の方に電話してもらうなど、いろいろなチャンネルから働きかけています。
日本語教師を目指す方へ
日本語教師の選択肢は多彩になっている
私自身、非常勤講師、海外のネイティブ教師、出版社、大学教員と、日本語教育というベースの上で、いろいろな職種に挑戦してきました。今、日本語教師を目指している皆さんにも、将来について柔軟に考えてみてほしいと思います。
例えば、地域の日本語教室をはじめ、介護の現場や工場など専門的な場で日本語を教える仕事もありますし、コロナ禍以降はオンラインレッスンも広がっています。日本語教師とひとくちに言っても、教える現場は本当に多様にあると思います。
日本語教育というくくりで見ると、私のように出版社で働いたり、日本人に日本語教育とは何かを教えたり、日本語教育と国語教育の違いなどを研究したりする分野もあります。
そもそも日本語教師は、いろいろな国の人に接し、考え方や文化の違いを受け入れ、それぞれに必要な学びを一緒に考えていく職業です。様々な「違い」を柔軟に受け入れて楽しめるような人が向いていると思います。日本語教育を学んだ先の進路についても、多彩な現場で楽しんでみてほしいですね。
しなやかに、柔軟性が高い日本語教育界の魅力
日本語教育は、社会情勢に大きく左右される業界です。留学生の受け入れができなくなったコロナ禍というのは、その顕著な例でしょう。常にそういった事態が想定される業界だからか、この分野に携わっている人たち、そこで働いている人たちは、しなやかで柔軟性が高い人が多いように感じます。
また、日本語教育という分野自体がボランティアに支えられている部分が大きいためか、ボランティア精神が旺盛な人も多いような気がします。
「よりよいクラスにするためにはどうしたらいいか」「どうしたらこの仕事で食べていけるのか」と、常に皆さん考えている。学会や研究会などで、そうした日本語教師や日本語教育に関わる皆さんにお会いすると、私はいつも元気をもらえますし、その「みんなで一緒にこの業界を良くしていこう」という雰囲気が好きなんです。私の進路には様々な紆余曲折がありましたが、ここが魅力的な業界だからこそ、今まで続けてこられたのだと思っています。
とはいえ私自身、もともとは、自分からいろいろな人と関わるような、社交的な性格だったわけではありません。どちらかというと、引っ込み思案で根暗なほうでした。でも、日本語教師になり、世界中の人と出会って、多様な考え方や生き方に触れる中で、徐々に国境を越えたコミュニケーションの楽しさにはまっていきました。ですので、これは自分を変えてくれた仕事だと思っています。
今後
これからの目標
現在の教育学習支援センターの任期を終えた後は、このまま大学教員の道に進むか、また企業に戻るか、まだ決めていません。ゆっくり考えていこうと思います。
直近の目標は、国家資格「登録日本語教員」を取得することです。ここに着任する(2024年)前の現場経験はもう13年前になるので、経過措置期間に取得するためには、現場経験を1年以上積まなくてはいけません。そのため、来年以降に取得できるよう、経験を積みながら情報を集めて、準備をしようと思います。